身体と言語
尾崎 健次
「身体は言語で構造化されている。身体は、解剖学的実体というよりは記号システムである。」腰、腹、肩—私たちは言語化することによって、はじめて身体の部位を意識できる。拇指宮、ひかがみ、丹田、一重身、自然体。基本稽古、形稽古、地稽古の繰り返しの中で、近い、遠い、低い、高い、15度、45度…と身体と言語との練り合わせ、修正を繰り返す。身体と言語を付き合わせ、響き合わせ、共鳴させるように…。
言語とは脳であり、心であり、その言語を介して心と身体のコミュニケーションは始まる。言語と身体の一致は心技体の一致そのものである。それまでの身体に対する認識を取り外し、「武道的身体」の感覚をすり込むことは、自己の異化であり、自分がそれまでにない新しい自己を生きる経験として、ある種の至福の体感である。日本剣道形の手引きにしても、居合の解説書にしても、身体の部位、姿勢、動作の規定は正鵠を得ており、剣の理法を余すところなく伝えている。先日、形の審査に来られた先生が、使いこなしてぼろぼろになった剣道形の手引き書を手にとって、「実によくできている」と言ってほれぼれと眺めておられた。練達の先生には言語の身体への響きがひとしおであろう。剣道形の表記の正確さは剣道の伝統の成果である。優れた兵法書とは『五輪の書』のように、言葉によって剣の極意を語り尽くしている。
言語が剣の奥義を究めれば、修業だけでなく、指導にとってもその力は発揮されるはず。それが「技言語」というもので、指導を受ける生徒にとっても、響く言葉は脳を目覚めさせるに違いない。言語にはそれまでの混沌としていた身体に、形や秩序を与え、洗練された技にまで高めていく働きがある。不肖私もマンネリ化した実技練習を見直し、整理し、新しく組み直すことができるようになったと思えるのも、敬愛する武道家の斬新な言語による体系的な理論と、毎回の掛かり、受けの実技指導での的確な言語によるご指導のお陰であると心から感謝しております。
言葉が真を尽くしているかどうか、それは身体が知っている。