学びと「師弟関係」
尾崎 健次
その道に覚えのある人ならだれでも、その芸に秀でた達人、師匠の妙技に魅せられたことがあると思う。雄渾、華麗な眼前の師匠の姿に、己のあこがれ、理想を見いだし、己自身の「成熟を先取り」する。この全能感に満たされた戦慄がたまらない。しかし、そこには、天と地ほどの段差がある。地獄の修業と言う計り知れない断崖が…。
やり始めて3年、一通りできると言う、おのれの器用さに喜び、うぬぼれ、人のことにまで口を出したくてしょうがなくなる。他人への批評が優先し、おのれの修業は疎かになる。吸収力は弱まり、おのれの芸は固着、停滞する。修業の指針は失われ、エゴ、プライドだけの、泥沼に足をとられ、失意のうちに棒を折ることになりかねない。
武道などの伝統芸能の習得は、師の生身の体を通して行われる「写し」と言うもので、芸においては絶対服従という奴隷の様な行為である。「守破離」における「守」である。
その関係に立って、はじめて「学び」が機能する。師から発せられるあらゆる指令を、試練と考え、全てから、何かを学び取る。技に対する高度な要求、厳しい叱責、日常生活の立ち居振る舞いまで。その試練を乗り越えようとする、地獄の苦しみ、悩み、悶える営みが、自分を大きく成長させる。文句を言ったり、逃げたりすれば、それで終わり。時間の中での変化を信じ、ひたすら師を信じ、追い、学び続ける姿勢そのものが「学ぶ力」と言うものであり、人々に感銘を与える「芸の花」をさかせるのである。
修業はいつまで続くのか?それは悩みが続く限りである。師のレベルとの落差を感じ、師の行動全てから技を吸収してやろうと言う意欲が続く限りである。何でも受け止めてくる弟子は、師にとっても脅威である。先を行く者と後から追う者との芸の命を掛けた果てしない戦い。これが芸の道の非情さであり、奥深さであろう。師に就いて学ぶ経験をした者だけが、師として弟子を指導する資格を有する。