中世から近世へ ― 土木の戦国武将田中吉政
その1 関ケ原前
尾崎 健次
侍田中吉政の誕生
① 田中吉政の出自
田中久兵衛吉政は湖北三川の地侍、重政の子として生まれた。父が戦で負傷し、侍としての役目を果たせず、年貢を課される百姓として、苦しい生活を送る日々であった。東に聳える伊吹山を見ながら、田植えで疲れた腰を伸ばし、「いつまでこの生活が続くのか。百姓でいる限り、この貧しさからは抜け出られない。もう、我慢ならん。侍で手柄を立て、出世するしかない。」「侍ならぬものは人倫にてなし」と覚悟を決め、16の年、親、妻子を置いて、浅井長政の家来、宮部継潤(善祥坊)配下の侍になる。

②戦国下級侍の道
3石の下級侍になり、槍など厳しい訓練を受ける。槍の腕前で手に入れた3石侍分。姉川の負け戦で首一つ上げ、7石半の石高を得る。 姉川の戦いで浅井家敗退の後、信長方に就いた宮部継潤を通して、吉政は木下藤吉郎(秀吉)に引き合わせられた。そこで、その武者振りを買われ、三好孫七郎(後の豊臣秀次)の傳役(もりやく)に抜擢、秀吉から破格の75石を与えられる。
③秀吉の家臣
小谷城の戦いで肩に矢、右股に槍で突かれる傷を負いながらも、4つの首を上げ、都合合わせて7つの首で、300石の大身(たいしん)となる。信長の首実検と恩賞の申し渡しの結果、浅井家の領地12万石が秀吉に与えられた。吉政にも300石が与えられ、秀吉直属の家臣となった。秀吉の今浜(長浜)築城の際、石垣普請の監督として、直接、城造りを指揮する。織田家の武将たちは石垣の土台の上に高々と天守閣を築き、大名の威光を知らしめる新しい城造りを始めた。琵琶湖の水域を城の濠として使い、防備と水運の機能を巧みに利用していた。
300石の大身として、武芸以外にも、和歌、連歌の教養が求められたが、吉政は文事を苦手として一向に寄り付かなかった。根っからの百姓であった。その分、築城と算用と槍術に励んだ。

豊臣秀次との出合いと近江八幡城の築城
① 1500石の大身
秀吉に中国出陣が下ると吉政も加わった。織田勢は順調に勝ち続けている。そこで自分が首を上げれば、300石の禄が数倍になることは確実だ。首取りは武士の手柄と誇りの証。このまま織田勢が勝ち続けて天下を統一すれば、大名になることも、夢ではない。功名に逸る気持ちを抑えきれない。田中家の興隆のためには何が何でも出世しなければならない。両親、妻、子ども、兄弟、家来の命運がかかっている。但馬の土豪を攻めた時、命がけの働きをした。吉政の勇猛さは飛びぬけていた。
出世が進むと、上司、宮部継潤から新しく近隣の、鉄砲で有名な国友家の娘との縁談を持ち掛けられた。正妻が百姓出の女では武士としての出世に関わるというのである。それまで長男吉次と数人の娘がいたが、名義上の母親は正妻になり、実母は妻妾に格下げになり、それも百姓に拘るあまり、離縁される。
北但馬の水生城攻めでは右胸が矢に刺さり、落馬しながらも敵将と槍を交わし、何が何でも敵の首を取ろうとするすさまじい意気込みを見せた。
鳥取城を攻め落とした秀吉は、継潤に城を与えた。5万石である。それに合わせ、吉政には1500石が与えられた。これで晴れて天下の武将に加わった。同時に秀吉の直臣になって、再び万丸(よろずまる・秀次)の老臣として、面倒を見よと仰せつかる。
②秀次の老臣
賤ケ岳の戦いの後、秀次は摂津の国を与えられた。その時、吉政の軍勢の足軽が住人の家に押し入り、勝者が行う乱妨取り(略奪行為)として、そこの女房を犯した。その家は秀吉の重臣、池田勝三郎の家人である。放って置くと大変なことになると思い、吉政自らが始末しようとした。その時、不意を突かれて、鼻から上唇にかけて、長い切り傷を受けた。この向こう傷のお陰で、面構えに箔が付き、勇気と剣技に優れた武将として勇名を馳せるようになった。
秀次を大将にした小牧長久手の戦いでは、手柄を焦る秀次の攻めのまずさから、命からがらの敗退を期した。その後は紀州、四国攻めと順調に手柄を立て、ここで初めて、秀吉から一字をもらい、それまでの信吉から秀次に改め、秀吉の第一の後継者に位置付けられる。秀次自身には20万石、その他老臣らに23万石が与えられ、合わせて43万石の堂々たる大大名になった。吉政自身には3万石が与えられ、老臣衆の筆頭として、近江全体の知行を任された。最初の仕事が秀次の居城を築くことであった。その場所が近江八幡山、信長の滅んだ安土城のすぐ隣であった。城造りこそは吉政の得意分野として意気込み、琵琶湖の水利を生かした防備と、信長の始めた楽市、楽座の自由経済都市の城下町づくりに意欲を燃やす。

③小田原北条氏征討と岡崎領有
秀吉の小田原征討に合わせ秀次も軍を動かす。吉政も他の宿老と共に、秀次に従って東下する。伊豆到着後、家康と共に進行計画が策定され、山中城(三島市)を秀次が攻めることになり、吉政も従い、一日で攻略した。その後、秀吉勢は次々に攻め落とし、完全に小田原城を包囲した。やがて小田原は平定され、関東に徳川家康が移封されると、家康の旧領、及び、秀吉に反発した信雄の旧領が、秀吉配下の家臣に分配され、三河岡崎の地が吉政に配下された。5万7千石の城持ち大名である。
城下町岡崎のまちづくり
①「城下町岡崎」建設の壮大な構想
吉政にとって初めての自分の城である。5万石を生かすも殺すも自分次第。吉政の城下町岡崎の壮大な計画が構想された。
(市橋章男「まちづくり田中吉政の生涯」)によると、次のようである。
・東からの防御を考えた城郭の構想
・都市機能を備えた城下町建設
・徳川色の強い寺社勢力の弱体化(政教分離の推進)
・兵農分離の推進
・矢作川の整備、新田開発


② 岡崎城の拡張と城下町建設
吉政は五万七千石の岡崎城主として近世岡崎城城郭の原形を作った。吉政入部の時、惣構はなく、沼沢や河川を利用して、城の外周防備をしていたものと思われる。材木町にあった天神山を切り拓き、その土で城西の沼地を埋め、切り出した材木で作った町屋が田町、板屋町の始まりであった。現在それにちなんで御旗公園に石像が建てられている。城と城下町を囲む惣構の堀は「田中堀」と言い、城下町の内と外を厳格に区別し、諸役免除など、特権が付与された。更に、町屋部分に街道を通し、防衛的な機能を持たせるために「二十七曲がり」を作った。この街道を城下に引き入れる構造は、岡崎城下を軍事、物流、商業の拠点とし、経済的な繁栄をもたらすことになる。その延長上に、矢作橋架橋の構想もあったが、吉政在藩中には実現しなかった。また、天守閣も新しく構築し、天守台の石垣、瓦の採用など近世に繋がるものであった。
③ 西尾城の城下まちづくり
吉政は西尾城主も兼帯した。初め、幡豆郡と碧海郡は秀吉の蔵入り地(直轄地)であったが、統治は吉政に任されていた。幡豆郡西城地域(現西尾市)の西尾城に関しては、先代の徳川家臣酒井政家からの改修を引き継ぎ、三の丸を増築し、町屋を移転させて、近世城郭としての形を整え、長男長顕(吉次)に治めさせた。また、当地の歴史ある伊文神社の祭礼に白木の神輿を奉納し、「西尾の祇園祭」として受け継がれるような、地域住民の文化振興に尽くした。吉政が西尾を統治することで、岡崎藩の海上交通の利便性をより強固なものにしたと思われる。
吉政の領内統治は、自らが領内を巡回し、実地見分し、普請などに指示を与えたと言われている。知立から西尾までの芝原に松を植え、矢作川の川岸に柳を植え、塩浜の燃料として売買させ、また、科人(とがにん)を使って農地を開墾させた。矢作川の整備、新田開発は三河地方の領土の拡大をもたらせた。近世城郭の建設、治水、石高の増加、矢作橋の架橋の準備、矢作新川開削への発展、岡崎と三河湾の水運のつながりなど、従来の中世的な領土から、政治経済力のある近世の領土への転換である。家康が矢作川の築堤にはあまり手を出さなかったのに比べ、吉政のこの功績は後世に大きな足跡を残した。
いずれもが、秀吉の統治政策を踏まえながら、土豪出身という経験を生かし、農民の生活感情に根差した地域発展の政策であった。

④ 寺町づくりの失敗
どれも秀吉の政策を反映したものであるが、家康の影響を強く持つ岡崎の事情は、吉政にとって頭が痛いものがあった。特に、寺社は松平氏とその郎党との関わりが強く、計画的な城下まちづくりを目指す吉政にとって難題であった。吉政が意図した寺町構想は、本宗寺を中心とした三河の真宗寺院を城下の一角、「福嶋」に集めるものである。「福嶋」は吉政が沼地を埋め立てて造成した田町、板屋町南部で、菅生川、伊賀川に挟まれた島状の地であり、水難の怖れのある土地柄である。そこに、本宗寺を中心に三河三ケ寺の上宮寺、勝鬘寺、本證寺、他、浄妙寺、慈光寺、願照寺、平坂無量寿寺を合わせて三河七ケ寺を集め、一挙に統制下に置こうとしたが、本宗寺以外の寺院は言うことを聞かなかった。この構想は、秀吉の京都鴨川べりにおける寺町の形成、大坂石山本願寺の移転先としての天満の寺町の形成の方法に倣ったものであったが、岡崎では上手くいかず、寺領没収と言う厳しい政策に及んだ。三河でのこれだけの貢献に対して、吉政の地域の知名度の低さ、人気のなさの理由は、一に家康と家臣団のスケールの大きさの影に隠れてしまったことと、二に寺社統制の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)にあると思われる。

⑤ 秀吉の朝鮮出兵と「安宅船」建造
秀吉の朝鮮出兵は当時世界最大の侵略戦争であった。全国の大名が佐賀名護屋に集められ、吉政も陣を構えて出撃の準備をしていたが、戦況が変わって、地震で倒壊した伏見城の修繕や朝鮮出兵のための軍用船「安宅船」の建造を言いつかった。
関ケ原前夜
① 秀次事件の顛末
世継ぎのいない秀吉は、信長や自らの血筋の中から養子を求めていたが、秀次が後継者として選ばれていた時、淀との間に長男の鶴丸が生まれた。しかし、3歳で夭折し、更に、秀吉の片腕として豊臣政権を支えていた秀長が病死した。この辺り、来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でどう描かれるか、興味深いところだ。改めて秀次を養子にして関白も譲り、秀吉自らは太閤となった。しかし、淀が再び懐妊し、秀頼を生むと、秀次を関白にしたことを後悔した。秀頼への溺愛と引き換えに、自身が邪魔にされていると意識し始めた秀次は精神に異常をきたしたと噂される。謀反の嫌疑を掛けられ、高野山追放、自害を強いられ、妻妾、子女30人余も市中引き回しの上、処刑して、一族の血筋を根絶やしするという惨たらしい処置が下された。その他、近侍のものが多く切腹を言い渡される中で、田中吉政はじめ、中村一氏、山内一豊ら年寄にはお咎めなく、代わりにそれまでの秀次の領地が分配加増され、東海道の主要な個所に配置された。吉政も加増され、岡崎、西尾合わせて名実ともに10万の大大名となる。
② 秀吉の死と家康の挙兵
吉政は醍醐の花見で北の政所の輿を担ぐ。秀吉は62歳で寿命を終え、偉大な夫を失ったねねの哀しみを癒すため、吉政が狩野家に依頼して描かせた肖像画は有名である。五大老、五奉行の中で専横を強める家康に対抗する上杉景勝が、軍事力増強のため築城を始めた。それを懲罰するため、上杉征伐に向う。大坂から江戸に帰る家康は、田中吉政を豊臣方勢力であると用心し、三河を回避し、海路を使って帰途に向かった。事前に察知した吉政は長男の吉次を使って、佐久島で饗応した。
③ 吉政の関ケ原出陣
慶長5年(1600年)、家康は会津への進軍を開始。下野の小山に到着。石田三成挙兵の知らせを受けて、小山評定を開く家康に向かい、吉政は、自分が近江の地理に詳しいと言い、先陣を申し出る。挙兵した三成は「内府違いの条々」を持ち出し、五大老と五奉行の支持を取り付け、家康を謀反人に仕立てた。家康に従った武将に動揺が生まれる中で、吉政は四男の忠政を江戸に人質として送り、家康支持の態度を明らかにしている。同時に宮部長房(継潤の長子)に、大坂方へ寝返るように仕向け、密書を三成に送り、いざというとき、どちらが勝ってもいいように、両張り体勢で臨んだ。田中家存続の決死の策であった。
その2 関ケ原以後に続く
全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第64(夏季)号 2025年7月掲載