中世から近世へ ― 土木の戦国武将田中吉政
その2 関ケ原以後
尾崎 健次
関ヶ原の合戦
①渡河の活躍、関ヶ原の布陣
慶長5年(1600年)、家康は会津への進軍を開始。下野の小山に到着。石田三成挙兵の知らせを受けて、小山評定にて吉政は、自分が近江の地理に詳しいと言い、先陣を申し出る。挙兵した三成は「内府違いの条々」を持ち出し、五大老と五奉行の支持を取り付け、家康を謀反人に仕立てた。家康に従った武将に動揺が生まれる中で、吉政は、長男吉次が出陣に加わった代わりに、岡崎にいた四男の忠政を江戸に人質として送った。岡崎には正妻と次男、三男がいるが、城を明け渡している以上、人質同然である。大坂には妾妻がおり、吉次以外、家族はすべて戦に絡め取られている。

徳川軍が逡巡中、吉政は先頭を切って、美濃に向かった。竹ヶ鼻を落とし、合渡川で三成の防衛線を突破し、関ケ原で陣を敷く三成軍と対峙した。桃配山から下りた家康の本陣の直前、石田三成の正面に陣を構えた。家康の吉政に対する期待と信頼の大きさが伺い知れる。東西互角の戦いの内、小早川秀秋が大谷吉継に攻撃を仕掛けると、様子見をしていた西軍が次々と東軍に寝返り、わずか半日で東軍勝利の決着がついた。

②石田三成捕縛
家康の本陣には多くの大名が集まり、首実検の評価を待った。吉政も甲冑姿のまま呼び出されるのを待ち続けた。迷いに迷った末、先ずは勝った側につき、生き残った。しかし、一つ間違うと、自分の首は飛び、一家滅亡である。この先のことを思うと、不安と戦(おののき)で腸が焼け爛(ただ)れそうだ。
吉政の日和見的な戦場での動きは家康の旗本たちから見抜かれていたかも知れない。いよいよ家康の前に呼び出された時、起死回生の奥の手として、三成捕縛の先陣を勝って出た。三成とは旧知であり、土地に詳しい者として、打ってつけとして、家康からも即座に了承を得た。地獄の手前で、命を繋いだ思いであった。しかし、生きた
まま捕まると、自分の立場が危うくなり、そこがまた、地獄への逆戻りである。三成の居城、佐和山城攻めは、返り忠をした小早川勢を始め、大坂方を裏切った大名たちばかりであった。徳川への忠誠を示すために、必死で佐和山城を攻めた。三成の兄石田正澄を主将に、石田一族、大坂からの援軍とともに戦ったが、城は二日で落ちた。天守は吉政隊が陥落させ、正澄ら三成の一族は自刃して滅び、落城後は凄惨を極めた。
しかし、三成本人の姿はなく、生きたまま家康に捉えられてしまったら、吉政の内通が明白になる。近江に潜伏しているとの目星をつけ、必死の探索の末、生きたまま捕縛。二人は同郷、同門の関係から敵味方の関係へと急転直下した立場を乗り越え、腹を割った話が出来たのか、互いに労を労い、韮(にら)がゆの礼にと、秀吉から下賜された「定宗」を渡された。

③石田三成の観念
捕縛後9月22日に大津へ送られ、家康に引き合わせられる。家康と三成はどんなことを話したか、吉政は知らない。三成はそののち、大坂、堺、京都の町中を引き回され、六条河原で首をはねられ、三条河原で首を曝された。
筑後の国づくり
①筑後入国
翌、慶長6年(1601年)正月、家康から吉政に加増の知らせがあった。豊前か筑後のどちらかの領地である。吉政は思わず筑後を選んだ。筑後は筑後川が有明海に注ぐ、肥沃な土地柄である。前任地の三河と地形がよく似ており、吉政はひどく喜んだ。関ケ原の合戦、三成捕縛の手柄の恩賞である。16歳で年貢を納められず、起死回生の苦肉の策として侍への道を進み、幾たびの苦難を乗り越えた果ての筑後32万石の大名の身分である。信じられないような出世である。しかし、喜んでばかりはいられない。筑後の国には関ケ原の合戦まで、立花、小早川、高橋らの諸大名が割拠しており、立花は去年の暮れまで西軍の敗戦組として、肥前の鍋島勢と戦いを続け、筑前の黒田や肥後の加藤の説得を受けて、やっと降伏、腹心の家来だけを連れて、筑後を立ち去ったところだ。城を明け渡したところで、立花の旧臣が安々と従うとは限らない。国を治めるのに失敗すれば、悲惨な結果になることは間違いない。三河から引き連れて来た二千の兵と共に、いつも臨戦態勢である。一方、在家の百姓には、自分も百姓の出であることを強調し、国造りの協力を求めた。
②柳川のまちづくり
先ずは城造りを強固なものにした。戦乱間もないこの地は、また、いつ起こるか分からない。そのためには、領地全体に兵を配る必要がある。幸い、筑後は筑後川の支流が縦横に走っている。これを水流として活用し、濠代わりに使えば、堅牢な城郭の曲輪になる。柳川城を本城に久留米城など十の城を固めた。更に柳川と久留米の間を幹線道路で結ぶ久留米柳川往還(通称「田中道」距離約20キロ、幅約3.6メートル慶長7年完成)を造り、軍事、経済の利便を向上させた。水路、「田中道」共に現存し、水路は水郷のまち柳川のシンボルとして大勢の観光客を呼び寄せている。次々と国造りの計画が進められる一方、出費も膨大なものになる。家臣への領地宛行(あてがい)と検知は最大の難関である。年貢徴収の元になる検地のやり方によっては、百姓の不満、一揆の発生源ともなりかねない。吉政は検地の工夫として、「田中高」という方法を導入した。石高を割り増しにするが、年貢はそのまま。家臣には名を、百姓には実を与えた。この方法で入国直後の難しい時期を、乗り切った。今までは戦に勝って領地を増やすことを考えていたが、もう戦は終わった。百姓が十分食えれば、一揆は起きぬ。商人も武士も住みよいはずだ。産業を振興し、紙づくりや茶、陶器、造船から家具づくり、水産物の増産にも力を入れた。それらの多くは地場産業として現代まで受け継がれている。信長の楽市楽座の実践である。
③有明海の干拓
しかし、国主となった喜びもつかの間、徳川家から普請の催促が次々とやってくる。伏見城、二条城の普請、江戸城の修復等々相当な負担である。その打開方法としての新田開発。藩財政の増収計画である。
筑後の国は、海岸線に干拓に適した有明海がある。干満差6メートル。広大に拡がる干潟。干拓は農地の拡大の他、治水の役目も果たす。増殖された葭(よし)に堆積する土砂に松の杭を打ち、周辺から掘り起こした土を積み上げる土盛り工法で、有明海に魚鱗状に干拓地が拡張して行き、慶長本土居が完成した時は、堤防の長さが32キロメートルに達したと言われている。

その後、400年余り継続して干拓は行われたが、2008年に完成した諫早湾干拓事業は、海苔、アサリ、ムツゴロウなどの生態系や環境への影響が問題にされた。
有明海の干拓以外にも、新田開発が行われた。筑後川の下流域には自然に形成された寄洲、中洲など、葭草類が自然に生えて陸地化し、島のようになったところが多い。河道に変化を加え、開墾し、何十町という農地を開発した。「浮島」「道海島」「大野島」がそれである。いずれも、吉政が武将になってから手がけて来た得意の土木の分野で、領地の拡大は順調に進んで行った。
④キリシタン大名田中吉政
日本は鉄砲とキリスト教の伝来以来、キリスト教の布教と南蛮貿易が盛んで、キリシタン大名は約50家、信者も当時の人口約一千万に対して、最大約50万人にも達していたという説もある。長崎も熱心なキリシタン大名大村純忠によって寄進され、日本の神社、仏閣は取り潰されていた。南蛮貿易も盛んで、日本からの重要な輸出品は銀、刀剣、硫黄などであったが、日本人奴隷も数多く取引されていた。戦国の敗戦国の住民が数多く奴隷となっていた。「唐ゆきさん」というのは男も含まれていたのである。南蛮人の日本侵略行為に秀吉は強い危機感を覚えた。1529年に結ばれた「サラゴーサ条約」で、世界はスペインとポルトガルに二分され、日本も大坂で東西に二分された。インド、マカオ、フィリピン島の侵略、支配。秀吉の「バテレン追放令」と「朝鮮出兵」は、秀吉流の対抗措置であった。
徳川家康が実権を握った初期は、秀吉の「バテレン追放令」が残っていたが、南蛮貿易への強い関心から、それを無視し、自ら伊勢に潜伏していた宣教師を招き、マニラ港(フィリピン)━アカプルコ(メキシコ)間を航海するスペイン船の日本寄港と引き換えに、メキシコとの通商交易を開くように、斡旋を依頼した。通商交易の内容は、ガレオン船(軍艦)の日本来航、造船技術と鉱山技師(当時、最先端の銀の水銀精錬技術)の派遣であった。
⑤水の都ベニスをモデルに
日本の各地の大名も南蛮人と接近し、布教と引き換えに南蛮貿易を促進し、藩の経済力を高めようと独自の動きを展開した。田中吉政もキリスト教に理解を示し、布教を奨励し、自身も「パルト・ロメヨ」という洗礼名を持っていた。慶長10年(1605年)イエズス会の司祭が柳川に行くと領主と家臣が手厚くもてなした。更に、良い土地を提供し、布教のために宿泊施設を建設し、領地に信者が増えた。また、慶長12年(1607年)には、柳川を訪れた神父エバスを大いに歓待し、天主堂の聖像のために多額の寄付をしている。キリスト教を奨励した大名たちは「南蛮渡来の…」というように、ヨーロパの進んだ技術、情報を手に入れることを目的にしていたように思われる。吉政の柳川の新しいまちづくり構想は、水の都ヴニスがモデルであったように、 ヨーロッパへの強いあこがれに基づいたものであった。
当時、キリスト教への志向が一番際立ったのは、キリシタンとも噂された伊達政宗の慶長遣欧使節の派遣(慶応18年・1613年)ある。仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節である。
使節に選ばれた政宗の家臣支倉常長は、宣教師ルイス・ソテロとともに、仙台藩内で建造された洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ」で太平洋を渡った。常長はメキシコを経てスペインに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに入り教皇パウロ5世に拝謁した。しかし、幕府のキリスト教弾圧などから目的を達することができず、7年後の1620年、仙台へと戻った。)当初、家康もノビスパニア(メキシコ)の持つ、銀の水銀精錬法の技術の導入のために遣欧使節には同調していた。しかし、スペイン側の出した条件が厳しく、交渉が難航した結果、伊達政宗単独の遣欧使節派遣となった。背後にはカトリック(スペイン、ポルトガル)とプロテスタント(イギリス、オランダ)との宗教対立があった。家康はキリスト教を幕藩体制の脅威である邪教と見なし、キリスト教禁止令(慶長19年1614年)を出し、オランダ、中国、韓国以外の通商を認めない厳しい鎖国令を敷いた。
その後、筑後の隣国で勃発した島原の乱(1637年)も、キリスト教禁止令で前任の有馬晴信が断罪され、後任の松倉重政の圧政や、「蓑踊り」(年貢未納の者やキリシタンに対し、蓑を着せて火炙りの刑にすること)などの残虐性に対するキリスト教徒の反乱一揆であった。キリスト教の宗教対立も絡み、幕府側には援軍としてオランダの軍艦の砲撃があったのに対し、一揆側には、ポルトガルからの援軍が来る予定であったが、スペインからの独立戦争が起こり、援軍は到着しなかった。日本の歴史と世界の歴史は緊密に絡み合っていたのである。

徳川幕藩体制の下でのお家断絶
①田中家の相続
吉政は慶長一四(一六〇九)年、江戸参勤の途中、京都伏見で客死した。享年六二歳。葬儀は京都金戒光明寺で行われ、遺骸は柳川の真勝寺にも葬られている。家督は本来長男の吉次が継ぐはずであるが、ここまで順調であった武将田中吉政に不可解な出来事が連続する。長男、吉次は父の片腕として、戦国の世を潜りぬけて来た。三河統治のころは、岡崎城の城主吉政と並んで西尾城の城代を務め、家康が会津攻めのため海路を使って江戸に帰還する途上、佐久島で父に代わって饗応するなど、世代交代をしても不思議ではない働きをした。関ケ原の戦いでは東軍として、岐阜の城攻めや佐和山城攻めでも活躍していた。家康より筑後三二万石拝領の時も、吉政に先んじて筑後入りをしていた。
しかし、家督相続は長男の吉次ではなく、四男の忠政に行われた。忠政は江戸幕府初期から証人としての徳川家の下に置かれ、徳川家の親族と婚姻関係にあった。田中家の後継としては、徳川家と姻戚関係にある忠政が優先されるのも政治の流れとしてよくあることである。次男吉信は不祥事、三男吉興は病弱として候補から外されていた。長男吉次については、自分が有能でありながら、後継になれないことを不満に思い、謀反を企てたとか、父吉政と不仲(一説によると、男4人の母親は国友与左衛門の養女であり、それぞれ別々で、吉次の母親は吉政が侍になる前の百姓の出の者であり、その扱いに実子として父、吉政に不満を抱いていた)で勘当され、京都の南祥寺に閑居したとか、諸説入り交じっている。もし、そうであるなら、親子でも袂を分かつ、戦国武将の意地とプライドには凄まじいものがある。実際には、その後、多くの資料から、河内守吉久という名で、柳川城主忠政の三奉行の一人となり、柳川城や江浦城の城番を務めたと言われている。
②徳川幕藩体制の下でのお家断絶
田中家は元和6年(1620年)、二代でお家断絶となり、柳川には前任の立花家が復活する。お家取り潰しの理由は世継ぎが誕生しなかったことであるが、それ以外にも、大坂夏の陣に遅参したとか、幕藩体制における秀忠の豊臣出身の大名に対する処分の厳しさや、忠政のキリシタンへの取り扱いの甘さが挙げられる。 田中吉政は激動の戦国乱世を雄々しく生き抜いた武将である。侍としての立場も、浅井、織田、豊臣、徳川と際どく潜り抜け、最後はヨーロッパにも目を向けた。槍と土木の力を見事に使い、「百姓が飢えぬ国」を目指し、中世から、近世へ着実に歩み続けた。その偉大な足跡を、我がふるさと三河で、矢作川の堤、三河湾の干拓新田と見て育ってきた者として、驚嘆と敬愛の念を抑えきれない。

全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第65(秋季)号 2025年10月掲載