尾崎 健次
1 徳川家康の登場
「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」
桶狭間で主君今川義元の首が取られ、大高で孤立し、何とか逃げ延びようとしたものの、自分の城には入れない。松平家の菩提寺・大樹寺に難を逃れたが、雑兵に囲まれ、自決まで覚悟した。「私の居場所はこの世にないのか、命を断つのなら、せめて先祖に詫びを入れてからにしよう。」と、切腹する準備を始めたその時、大樹寺の住職、登誉上人(とうよしょうにん)が駆けつけて、手に持つ刀を叩き落とし、「ここで死ぬは簡単じゃ。しかしな、再び人の命を授かるのは、どれほど、難しいことか。せっかく頂いたこの命、そなたがここで断った所で何の役にも立たぬ。苦しむ民の為に、この戦乱の世を生き抜いて、太平の世を築くという仏の教えに立ち返って下され。幸いあなたの身体を流れる血には松平の血が流れておる。念仏、浄土の教えを受け継ぐ者の血が流れておる。今、あなたにも、その教えを相伝しよう。」と言った。 こうして元康(家康)は仏の教えを頼りに、「厭離穢土、欣求浄土」を旗印として再起を誓った。三河松平氏は織田、今川、武田の大大名に挟まれ、祖父清康、父広忠、共に二十代で殺害されるという乱世の真っただ中に置かれていた。「人より猿の方が多いと尾張衆から悪口を言われるような後進地帯」三河の弱小大名として、辛酸の限りを味わうが、質実剛健な三河武士の力を集め、泥臭く、辛抱強く生き残りを図った。「三河一向一揆」、「三方ヶ原の戦い」「長篠・設楽の戦い」「正室・嫡男の処罰」「本能寺の変」「小牧・長久手の戦い」と幾多の危機を乗り越え、狸親父と揶揄されるほど用心深く、天下を窺う五大老筆頭としてゆるぎない地位を固めて行った。
「厭離穢土 欣求浄土」〈源信の仏教書『往生要集』冒頭の章名に由来する( この戦の世、人が人を憎しみ合う、この穢土、穢れた世の中は、私の本当の居場所ではない。 戦の世を精一杯生き抜いて、浄土の如き地に変え、いのちの終えた先には先祖の待つ極楽浄土という本当の居場所に生まれる。)という意味〉
2 秀吉の朝鮮出兵。当時、世界最大の戦(いくさ)
新大陸発見以来、アジアでの世界貿易の機運は高まった。南蛮人(ポルトガル、スペイン)のアジア進出の勢いはすさまじく、キリスト教の布教の陰に貿易の利益(金、銀以外にも、日本人奴隷の取引が、大きなウエイトを占めていた。)の独占がねらわれていた。秀吉もアジア貿易の主導権を握るべく、九州征伐の次のねらいとして明国制覇、そのための道先案内強要として、朝鮮出兵を強行した。
戦国時代で武勇を馳せた日本の戦力はすさまじく、今まで分裂して戦っていた戦力が、この時、一丸となって朝鮮に向かった。九州征伐以後、恩賞になる新たな領土を手に入れようと諸大名は先陣を切って手柄を立てようとした。中でも一番隊の小西行長と二番隊の加藤清正の先陣争いは有名である。また、朝鮮での虎退治も有名で、虎の毛皮や塩漬けの肉は土産として好評であった。特に、虎の塩漬け肉は、秀吉57歳での、第三子秀頼誕生をもたらせたと言う噂が立ったほどである。
戦の規模、犠牲、影響の大きさは測り知れない。
「文禄・慶長の役」の総計の死者数、日本・5万人、朝鮮+明・数十万人。これはその後の戦、戦争の死者数をはるかに上回るものであった。
〈参考・死者数 「関ヶ原の戦い」両軍わせて約2万人、
「日清戦争」両軍合わせて約5万人・「日露戦争」両軍合わせて約16万人〉
日本に連行された捕虜・奴隷 2万人~10万人以上。
人口500万の朝鮮で飢餓により人口が6分の1に、耕地面積が3分の1になった。(ウィキペディアより)
戦功の証明として当初は頭(しるし)が用いられていたが、輸送の困難によって、鼻そぎも行われた。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに耳塚にて弔われたとされる。
3 朝鮮出兵の影響
以上のように、朝鮮出兵は多大な犠牲を生み出し、明の滅亡、清王朝誕生の遠因になる。日本国内も朝鮮出兵における加藤清正や福島正則などの武断派と、石田三成や小西行長などの文治派の対立が決定的となって、関ヶ原の戦いが起こる。それに対して、朝鮮出兵に反対し、関東の地盤を固めながら、次に来たるべき武家社会の政治のあり方を、平和な社会の形である『貞観政要』に求め、天下統一を成し遂げて行った家康は正しく神対応。「神君家康」の由来と言える。
『貞観政要』(唐の太宗の政治に関する言行を記録した書。古来、帝王学の教科書とされてきた。主な内容として、太宗とそれを補佐した臣下たちとの政治問答を通して、「貞観の治」という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が語られている。)
4 天下人家康のねらい「覇道政治」から「王道政治」へ
家康は戦国時代を終わらせ、泰平天国の時代を築こうと、経世済民の思想を普及させた。下克上を起こさせない徹底した統治政策。幕藩体制、武家諸法度、士農工商の身分制度、参勤交代、関所制度(入り鉄砲に出女の警戒)、鎖国、武士の為政者としての思想徹底のための朱子学の導入、『貞観政要』の普及など。武断政治から文治政治への転換である。
慶長二十年(1615年)五月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、「元和偃武(げんなえんぶ)」を宣言。応仁の乱以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。
〈偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「偃武修文」(武を偃(ふ)せて文を修む。」に由来し、武器を偃せて武器庫に収めることを指している。〉
改元後、一国一城制が定められ、幕府は武家諸法度の制定などによって、支配体制の強化を図っていくことになる。下克上の禁止、忠臣の勧め。剣術も実行力としての武力から、統治者である武士の素養、人間修行としての武道に変わっていく。
5 小野派一刀流の流れ
家康は剣の大家に目を付け、二代目秀忠付剣術指南役として、小野忠明(おのただあき)を文禄二年(1593年)に召し抱える。忠明は二代将軍秀忠の剣術師範にもなっており、小野派一刀流を立ち上げ、江戸時代の剣術の主流を形成した。竹刀剣道を考案した一刀流中西派や幕末千葉周作の北辰一刀流、山岡鉄舟の一刀正伝無刀流はその流れを汲むものである。
6 柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の思想
続いて徳川将軍家指南役に召し抱えられたのが、柳生宗矩である。慶長六年(1601年)に、二代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。元和七年(1621年)、後の三代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。宗矩は『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』を著述し、家光に為政者としての心構えを説いている。禅宗、沢庵宗彭(たくあんそうぼう)の『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』や能、金春(こんぱる)流の影響を色濃く受けて、剣術が単に剣の修行にとどまらず、自己の人間形成、社会の治世にまで及ぶものとして、「進履橋(しんりきょう)」「切人刀(せつにんとう)」「活人剣(かつじんけん)」の三部で体系化されている。
「進履橋」は、「太公の兵法」でもって、中国古代、漢の高祖を助け、項羽をほろぼし、天下の平定に貢献した黄石公(こうせきこう)と張良の故事にもとづく。自らを張良に比し、この兵法をもって平天下の礎(いしずえ)としようとした宗矩の自負心がうかがえる。
「切人刀」では、「古にいへる事あり、『兵は不祥(ふしょう)の器(うつわ)なり。天道之を悪(にく))む。止むことを獲ずして之を用いる、是れ天道也』」という『三略(さんりゃく)』の引用から始まり、「兵法の目的とは」「大将たる者にとって必要な兵法とは何か」「兵法を治国に活かすとはどういうことか」ということを説く。「兵法は人をきるとばかり思ふはひがごと也。人をきるにあらず、悪をころす也。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也。」
「活人剣」では「無刀取り」という「秘技」を説く。自分が刀を帯びていないとき、いわば丸腰のときでも、相手に切られないための工夫である。その秘技達成のための奥義が展開される。「手字種利剣(しゅじしゅりけん)の目付」「病の心(妄心)」「懸待一如(けんたいいちにょ)」「合う拍子」「合わぬ拍子」「水月(すいげつ)」「平常心」等々。これは武力を戦闘の場面から切り離し、指導者の剣術と禅の心の修養に集約した「不戦」の精神ともいうべきものである。 剣術も殺し合いの戦技ではなく、自己修養の道徳、精神修養の文化になった。
7 宮本武蔵『五輪書』の思想
「元和偃武」から30年後、宮本武蔵60歳で著した兵法書。柳生の心法に対して、武蔵は徹底的に身体にこだわり、勝ち抜くための技法を説いた剣術の奥義である。天下無敵、日本一の剣豪として圧倒的な強さを誇り、数々の果し合いの名場面ととともに、絶大な人気がある。
『五輪書』は仏教の地水火風空の五輪五大に当てはめて武芸兵法の心得を綴ったもの。必勝の極意について、微に入り、細を穿ちて、徹底的に解説する。太刀の持ち方、足づかい、「先」の取り方等、絶妙の間合いの取り方が、理を尽くし、言葉を凝らして必勝の武術書が完成している。この極意を通して、武蔵自身、剣術以外に、書道、絵画、彫刻など多方面に才能を発揮した。『五輪書』は徹底的に勝つための剣の技法であったが、朝鮮出兵で明らかなように、戦は鉄砲と大砲の時代に変わり、島原の乱以後、戦の無い時代の剣術修行は、武士の素養と各流派の華法剣法になって行った。
〈華法剣法〉流派の形式や見た目を重視し、相互の交流や実戦から離れたものになること。
8 山岡鉄舟の春風無刀流
天保七年(1836年)江戸、本所の奉行、小野朝右衛門高福の四男として鉄舟(鉄太郎)は生まれた。家康の「元和偃武」以来、およそ200年、武芸を重んじる家系として、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を示す。幕府の講武所に入り、千葉周作からは北辰一刀流、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死の後、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子と結婚し、山岡家の婿養子となる。清河八郎と尊王攘夷を標榜する「虎尾(こび)の会」を結成。幕府による浪士組が結成されるが、横浜焼き討ちの計画が発覚し、清河暗殺後は謹慎処分を受ける。同じころ、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず、弟子入りする。この頃から禅の修行も始め、剣への求道が一段と厳しくなる。江戸の三大道場、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、斎藤弥九郎(神道無念流)の練兵館、桃井春蔵(もものいしゅんぞう)(鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう))の士学館に出入りし、「鬼鉄がきた」と恐れられていた。
彼の稽古は打ち込み、切り返しを延々と続ける、身体の忍耐力の限界まで挑む荒稽古であった。一人で、道場の全員を相手に、繰り返し何度も立ち切り稽古を続ければ、真剣勝負の気合になる。剣道は理屈ではない。「ひとえに心胆錬磨の術を積み、心を明らしめ、もって己れもまた天地と同根一体の理に果たして、釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。」「珍重す大元三尺の剣。電光影裏に春風を斬る。(広大な宇宙には何もない。ただあるといえるのはその三尺の剣の勢いだけであろうか。それは春風に稲妻が光るほどのものでしかないぞ。)『春風館に題す』では「剣家精妙の処を識らんと要せば、電光影裏に春風を斬る。」そのために『無刀流剣術大意』には「無刀流剣術者、勝負を争はず、心を澄まし、胆を練り、自然の勝を得るを要す。」「心の外に刀無きなり。本来無一物なるがゆえに、敵と相対する時、刀に依らずして、心を以て心を打つ。是を無刀と謂ふ。」彼の剣は「春風無刀流」と称されていた。
鉄舟にとって剣術は人生の全てであった。剣によって生きる意義を見出している。武士としての忠孝の道の追究である。二十二歳の時に、『東照宮御遺訓』を書し、徳川家臣として、本分を尽くすには、常に死ぬ覚悟を不動のものとしておかなければならないが、そのために、剣禅の修行があるとしている。
9 鉄舟「無敵の剣法」
その忠孝を試される時が来た。「鳥羽伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜は、家臣を大坂に残し、海路江戸に帰東した。慶喜は事ここに及んでは朝廷に恭順を示さねば、日本国は破滅しかねないと前途を読んでいた。幕府の旗本であった鉄舟は、上野の大慈院に蟄居した慶喜を警固する精鋭隊歩兵頭格の役に付いた。慶喜は静寛院宮(将軍家茂に降家した和宮)に、徳川家のために朝廷に謝罪するよう依頼した。そして、遊撃隊を率いる高橋泥舟を呼び、駿府にとどまる官軍総督府(西郷隆盛)に慶喜の意中を伝えるよう頼んだ。泥舟は慶喜から離れることはできないと義弟の山岡鉄太郎を推薦した。鉄舟は「天下太平。挙国一致。」の使命をより確かなものにするため、勝海舟にも諮(はか)った。海舟は鉄舟の心中を確認した。「この形成で、幕臣が官軍のただなかへ入り込むのは、自ら死を求めるにひとしい。どのようにして駿府の大本営に行き着くのか。」「臨機応変にて参ります。いくら敵でも、是非曲直を問わず、むなしく人を殺すの理あるべからず。」海舟はこの態度、言葉に望みを見出した。
鉄舟は、困窮のあまり刀すら差しておらず、大小を友人に借りた。新政府軍が警備している建物に単身で乗り込み、「双刀を解きて、彼らに渡し」、大胆不敵にも「朝敵、徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ罷り越すにつき、当駅を通過いたすゆえ、ご承知下されたい。」と大音声(だいおんじょう)で言ってのけ、西郷隆盛に面会を求めた。慶喜恭順謹慎の意を伝える鉄舟に対し、西郷は容易に聞き入れない。西郷の所信は、あくまで武力によって徳川家を討滅することにあった。全国民を覚醒させなければ、新政府の基盤がかたまらない。鉄舟はひたすら、朝命に背かぬ忠臣を討伐するは大乱であると説く。ついに鉄舟の説くところを聞き入れ、五箇条を提示する。
一 城を明け渡す事
一 城中の人数を向島へ移す事
一 兵器を渡す事
一 軍艦を渡す事
一 徳川慶喜を備前へ預ける事
その中の一箇条、「徳川慶喜を備前へ預ける事」は断固拒否した。君臣の情は絶対に譲れないと。鉄舟の心意気に感じた西郷は了承し、その時、江戸城無血開城、慶喜処分の密約が成立し、西郷と海舟の対談をお膳立てした。もし、官軍と幕府が江戸城決戦に突入していたら、江戸は火の海、国内が内乱に巻き込まれ、イギリスやフランスが支配する半植民地状態になっていた可能性が高い。
官軍が江戸攻撃を中止したのは、山岡鉄舟の決死の働きであると、慶喜の跡継ぎ徳川家達から幕府の宝である「武蔵正宗」が下賜された。その後、勝海舟は西郷の格言とて、「徳川公は、えらい宝をお持ちだ。命も名も金もいらぬ人は、始末に困る」といった。鉄舟と西郷の友情は西南戦争まで続いた。鉄舟は西郷の依頼で明治天皇の侍従を十年続けた。西南戦争の勃発前は、鉄舟が、政府の特使として、西郷隆盛に反乱を抑えるように頼みに行ったが、この時は果たせなかった。
剣を取って、生死の掛け合いの勝負を想定する剣術家は、危機回避、生の安全には一際鋭いものがあった。鉄舟が安政5年に綴った『修心要領』には、鉄舟が考えた武士道が敵を討つためのものではないことが明白に述べられている。「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず。余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」。(世の中で剣法といえばおそらく大半が敵を倒しこれを切るためのものであろうが、自分の剣法は人を切るためではなく、呼吸の神秘を会得するためだというのである。)これは剣法が自分の大悟のためだけにあることを意味した。「不動の心胆」と「神妙の臨機応変」、すなわち「無敵」。鉄舟の剣法が「無敵の剣法」といわれたゆえんである。
天下泰平を願った家康の遺訓は、剣の道の修行に修行を重ねたサムライたちによって、260年後の明治まで受け継がれて行ったのである。
全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第58(冬季)号 2024年1月掲載