吉良の海 その2 清水次郎長の謎

尾崎 健次

1 次郎長の剣

 「久六(きゅうろく)其免(のが)ルベカラザルヲ察シ、先ズ跳テ佩(はい)刀(とう)ヲ抜ク。長五(ちょうご)曰ク、「好シ」ト。亦其刀ヲ揮(ふる)ヒ、二人対戦、一上一下、白刃火ヲ散ジ、電光閃々(せんせん)タリ。奮闘良(やや)久シ、両家ノ子弟、亦互ニ戦闘シ、東西馳逐(ちちく)ス。久六心怯(きょう)シ、間ヲ得テ逃レントス。長五之ニ乗ジ、一刀其右臂(ひじ)ヲ断ツ。久六仆(たお)ル。長五乃其罪ヲ責メ遂ニ斬テ肉(にく)泥(でい)トナス。久六ノ子弟皆散ス。」(長五こと清水次郎長が裏切者久六に対し、恨みを晴らす戦いの修羅場である。肉泥とはひき肉のこと)
 海道一の大親分と言われ、並みいるアウトローを、血で血を洗う武闘で制覇した清水の次郎長は、幕末維新の動乱期で、想像を絶する生き方の転換を成し遂げている。その生き方の変貌に我がふるさと吉良の海が深くかかわっているとされ、その謎に触れてみたい。


『東海遊侠伝』
成島柳北閲
山本鉄眉
(天田(あまだ)愚(ぐ)庵(あん))著
アウトローのシンボル髑髏(どくろ)を
デザインした装丁がしゃれている。

2 次郎長の国抜け、博徒の道

 次郎長は清水湊の船持ち船頭「雲不見三右衛門」と称せられた高木三右衛門の次男として生まれた。その後、跡取りのない母方の叔父、山本次郎八の養子となる。清水湊の公的な機能は、富士川舟運と結びついた「甲州行塩」と甲信の米輸送の確保であった。寺子屋は米屋の跡継ぎ養子には必須の読み書き、算用であったが、即刻、破門。悪ガキたちと喧嘩に明け暮れる日々であった。養母との折り合いが悪かったせいと言われているが、その後も「預かり子」として親戚の家に預けられるが、どこでも悪童ぶりは直らない。唯一、倉沢の「望嶽亭」の松永家には可愛がられていたという。この奇縁が、後に「江戸城無血開城」の奇跡を生むことになるのである。しかし、「清水商家ノ子」次郎長は、一時的には家業に励むことはあっても、すぐに、生来の無頼の本性が剥き出す。そのころの次郎長は、後に兄弟分の関係を持つ、寺津の間之助から言わせると、店から金を持ち出し、小博奕(こばくえき)に打ち興じる商家のボンボンである。博奕のインチキや酒の上で、喧嘩相手に二人殺したと思い、国を抜け出し、本物の博徒になって、任侠道に活路を見出そうと決心した。当時、犯罪者は罪を逃れるため、国から逃亡した。これを国抜けという。流れ者、渡世人、草鞋を履くとは同じ意味である。

3 寺津、吉良の特殊事情

 寺津、吉良は物資の流通拠点としての港町。名門吉良氏発祥、徳川家縁(ゆかり)の由緒ある土地柄として人気があり、大名、旗本の飛び地として分割統治されていた。それ故、警備が緩く、現地の治安は顔役任せという、博徒が幅を利かせる魅力の金城湯池(きんじょうとうち)。しかも、次郎長にとっては格好の相棒、寺津の治助、吉良の小川武一との巡り合わせがあった。治助は今天狗という四股名で、元相撲取りであった。この当時、相撲取りからやくざに転身するものが多かったが、相撲は今でいうプロ野球のような、力のある男の立身出世のあこがれの世界であった。
 治助は地元の顔役として、人足の取りまとめから、賭博のしきり、十手取りとして二足の草鞋(わらじ)を履く身分であった。治助亡き後は間之助が一家を引き継いだ。間之助自身も次郎長と一緒に武一の下で剣の修行をしたとあるが、この一族は剣術と縁が深い。西尾市剣道連盟編纂の『地域からの剣道史』に、藤村間之助の弟、富三郎の孫に当たる吉蔵という人が居り、昭和の初期、瓦製造業の傍ら剣道を嗜み、武徳会総裁守(もり)正王(まさおう)殿下(でんか)より四段精錬証を拝受され、西尾蚕糸学校(現在の鶴城ケ丘高校の前の前の学校)で嘱託として指導、剣道の普及発展に貢献されたという。当時の瓦製造業は経済力があり、愛蔵の日本刀を懇意の出征見習い士官に贈っていたという記録がある。その孫に当たる方と嘗て職場が同じことがあり、実家には剣道具が沢山あったと言っていた。
 小川武一についてもそれらしい記述がある。『大給松平と西尾』の「剣道の沿革」に清水次郎長が西尾で備前の浪人山田其に剣道の指導を受けたとある。その記述は確認できなかったが、名前は違うが、備前の浪人と清水次郎長とあるからには『東海遊侠伝』に出て来る小川武一と考えていいだろう。
 この当時は、幕末維新の社会構造の激変期である。幕府、藩の経済力の衰退と浪人の発生。外圧による幕府の威信の低下。飢饉、疫病の発生。治安の悪化。無法者の横行。自衛、武力の必要性。町道場の隆盛。剣術も形稽古から、撃剣というより実践を重んじた訓練法への転換があった。用心棒という剣術家の活躍。この混沌とした社会の流動の中で、次郎長、治助(間之助)、武一の出会いがあった。賭博と喧嘩で次郎長のやりたい放題。いかさま賭博、喧嘩、挙句の投獄。しかし、剣の修行だけは真面目に取り組んだ。


寺津八幡社
この近くに間之助の家があった。



寺津港
次郎長の逃げ道

4 吉良での剣術修行

 武一の下での剣術修行は、次郎長の映画、ドラマで様々取り上げられている。街道筋の評判でも、三河一の侠客で、「備前ノ浪士、姓ヲ小川ト云ウ。長身大胆、勇偉(ゆうい)魁(かい)傑(けつ)、最モ撃剣ニ長ジ、門生数十人、実ニ侠家ノ魁(さきがけ)タリ。」と『東海遊侠伝』にも描かれている。剣は強いが、大酒のみで、それが理由で、お役目御免。剣と賭博で諸国をさまよう浪人となった。
 剣の修行については、小説、丸口屋舌波『とっぺぇ清水の次郎長』(2)に描かれている。吉良の海岸、吉田辺りで、道場を構え、夜は土地の漁師を集め賭場を開帳している。
 次郎長は治助の仲介で訪ねたところ、壷振りとして目を付けられ、男の度胸を確かめられた。武一の指示で、政五郎という若侍に、竹刀で徹底的に叩かれた。気絶するほど叩かれて、一か月経っても音を上げなかった。政五郎はその得体の知れなさに怖れのようなものを感じ、その強さの理由を尋ねた。「強さってのは、その強さのやり場がなけりゃぁ、それはただの持ち腐れで終わる。兎にも角にもどこかに魂魄(こんぱく)の火を燃やしてこそ本当の強さってもんじゃねぇのかぇ?」
 その魂魄の火を、次郎長に見せられて、男に目覚めた。若侍とは知多郡大野湊の廻船問屋の息子で、犬山藩の侍に養子に行ったが、主君のお家騒動に巻き込まれ、養父は切腹、家禄没収で、無宿、失意の放浪の末、吉良の武一に拾われた。次郎長と火花を散らした後、男意気にほれ込んで親子の契りを結んだ大政こと山本政五郎であった。

5 映画『どら平太』

 用心棒としての浪人の活躍では黒澤明の『用心棒』があるが、意外なことに、ここ西尾の城下町を舞台にした小説、映画がある。
 山本周五郎の『町奉行日記』原作、市川崑監督の『どら平太』である。ある小藩の国許では、財政難を補うために「壕外(ほりそと)」と呼ばれる無法者の町から莫大な上納金を集めていた。その上納金は藩の重職たちの懐に入り、壕外を束ねる三人の親分は無法を黙認され、その無法を暴こうとした町奉行は次々に辞職に追い込まれた。そんな中、江戸屋敷から新たな町奉行として望月小平太が赴任してくる。剣も、頭も切れるスーパーヒーローどら平太が、新任の町奉行として一度も登城することなく、快刀乱麻、見事、藩の不正を正すというドラマである。主役の役所広司もドンピシャのはまり役であるが、流石、四騎の会(黒澤明、木下惠介、市川崑、小林正樹)の脚本だけに、史実を上手くドラマ化した痛快活劇である。濠外というやくざが支配する無法地帯で、博徒が賭博をする場面や、淫売婦が必ず莚(むしろ)を持って男に言い寄る場面は妙に生々しい。
 西尾藩がモデルというが、武家屋敷の内と外を隔てるお濠などあるものか、全く設定が違うと思っていたが、『西尾八景』という画集に、外濠が描かれていた。濠外の濠と外濠は違うかもしれないが、お濠というものは交通の邪魔になってどんどん埋め立てられるものである。西尾藩の海の玄関、平坂湊は三河五(ご)湊(そう)として江戸、大阪に御用米や、木綿、味噌を樽廻船で積みだす物流の拠点として栄えていたが、今は単なる用水路になり果てている。往時の姿、今いずこである。小説では城から南に四キロ離れた荒浜という地名が出て来て、どら平太(小平太)の友人だが、実は藩の悪の頭目であった仙波義十郎(映画では堀郷之助)と密会する場面が出てくるが、そこが平坂湊ではないかと推測できないこともない。
 結局、壕外に入り浸り、酒、博打、女遊びの豪遊を繰り返しながらも、3人の大親分の尻尾を掴み、死罪の代わりに壕外からの永久追放を言い渡す。濠外が寺津や吉良のようだと思うが、平坂や一色にどうして痕跡がないのかというと、平坂や一色は西尾藩に属し、港町と言えど、博徒の取り締まりが厳しかったのではないかと思う。特に、平坂湊は公儀の湊として、八か条にわたる厳しい高札が掲げられていた。それに比べて、寺津は碧南の大浜陣屋管轄の沼津藩の飛び地、吉良は大多喜藩や旗本の飛び地として村ごとに細分化されていた。村の治安は地元の顔役任せである。これが寺津、吉良の特殊事情である。尾張藩は62万石の大藩で、徳川幕府の西の砦で警備強固であるのに対し、三河地域は幕府譜代、旗本の恩賞の地ということで、領地が弱小化し、警察権力が及ばなかった。三河はお尋ね者が潜伏する格好の地であった。


映画『どら平太』



上が八面山からの
三河湾の眺め。
下が西尾城の外濠

6 武闘派次郎長

 次郎長は吉良で磨いた腕と度胸で、血で血を洗う凄惨な戦いを制して、街道一の大親分になる。数々の武勇伝がある。安政5年(1858)次郎長逃亡中の名古屋で、保下田久六の裏切りに遭い、そのせいで女房おちょうを喪い、翌年、知多亀崎乙川で、復讐のため斬殺する。冒頭、『東海遊侠伝』の久六との喧嘩の場面である。仇討ちの意味もあり、酷く残酷な殺し方をしたが、明治の中期までは、斬首、梟首(きょうしゅ)は日常的で、やくざの世界ならなおさらであった。
 その時使ったのが,寺津の治助から、生き形見としてもらった井上真改(いのうえしんかい)という名刀で、その翌年、森の石松によって讃岐の金毘羅宮へ奉納され、今でも、重要文化財として、保存されている。石松はその帰途、遠州小松で都田吉兵衛に謀殺され、また、その翌年、都田吉兵衛を斬殺するという復讐の連鎖が続くことになる。宿敵、黒駒(くろこま)勝蔵(かつぞう)との因縁の戦いも続いた。次郎長と勝蔵は元もと富士川の塩荷の舟運の利権をめぐって対立があった。そこに幕末の政治勢力、佐幕派と尊攘派の対立が加わった。尊攘派に属する勝蔵は藩の御用の追及から逃れるため、博徒のネットワークを頼って、三河宝飯郡平井(現小坂井町)の雲風亀吉の許に潜伏した。その情報を掴んだ次郎長は、自分の一家に寺津間之助、吉良仁吉、形原斧八が揃って、亀吉、勝蔵を急襲した。子分6人を犠牲にして、二人は辛くも逃げ延びた。
 その後、亀吉の仕返しと戦いの連鎖は続くが、講談、映画で有名なのが、荒神山(こうじんやま)の喧嘩である。当時、縁日など寺社で行われる賭場は認められており、大きな財源である寺銭を巡って派閥間の抗争が激しかった。現代でも賭博は御法度であるが、公営ギャンブルが公認の下で所轄官庁に分かれている。パチンコが警視庁、競馬が農水省、競艇が国交省、競輪が経産省、カジノが内閣府等々…。庶民は税金以外の、ギャンブルでも国によって金の流れが支配されている。


井上真改
(いのうえしんかい)
金毘羅宮保存

7 荒神山の喧嘩

 荒神山の喧嘩は、伊勢日永追分の黒田屋勇蔵の跡目争いで、縄張りを手に入れた穴太(あのう)(安濃(あのう))徳に対し、三河に追われた神戸(かんべ)長吉(ながきち)が吉良仁吉、寺津間之助、次郎長に助けを借りて、奪い返そうとしたものである。安濃徳側が勝蔵に、長吉側が次郎長に助力を頼む二人の代理戦争の様相を帯びる。講談の世界では、長吉に助っ人を頼まれた吉良の仁吉は、博徒世界の義理を優先し、敵側の安濃徳の妹お菊と離縁して戦い、命を捨てて、男を立てたということである。それほど博徒の派閥の仁義には強いものがあった。大政、仁吉は長吉を擁し寺津を出撃基地に海路、吉良の海を通って出陣した。結果は仁吉が鉄砲に打たれ重傷。総勢22人中15人がやられるという劣勢で、仁吉の遺体と供に、夜の伊勢湾から、寺津に引き返した。知らせを聞いた次郎長は黒駒勝蔵の背後に古市の丹波屋伝兵衛がいることを突き止め、駿・遠・三の系列の博徒に檄を飛ばし、総勢四百人、銃、長槍、食糧積み込んで、千石船に大軍団を率いて伊勢の海を横断して乗り込んだが、丹波屋伝兵衛は逃げた後であった。次郎長の戦法は、実父譲りの廻船乗組員組織の影響が反映している。遠州灘を乗り切る「衆」の固いチームワークと臨機応変の機動力にあったと言える。

8 山岡鉄舟との出会いと次郎長の改心

 荒神山の喧嘩が行われた慶応2年(1866)は国を二分して佐幕と勤王に分かれ、共に勢力拡大を図って暗躍した。混乱に乗じて力を伸ばし始めた博徒集団の戦闘力も目をつけられた。それ以前の文久元年(1861)次郎長、間之助も召募の勧誘を受けた。京都の公卿の家来の武士から、食禄二十石、家臣として召し抱えるという申し出に対し、苗字、帯刀は渡世人にとって、喉から手が出る程の身分、間之助は飛び上がって喜んだが、次郎長は「我ガ党無頼ノ徒、如何ゾ士ノ規範ニ堪ン。」と言って、遊侠の世界に固執した。幕末の政治情勢が進行する中、次郎長は清水港に根を下ろし、海道一の大親分としての地位を築きつつあった。佐幕、倒幕にとって、雌雄を決するのは東海地方、駿府城、久能山東照宮、清水港で、次郎長の勢力圏である。
 慶応四年(1868)三月、官軍参謀西郷隆盛と幕府代表勝海舟との会談に先立ち、山岡鉄舟との密談が行われた。山岡鉄舟は慶喜直属の旗本高橋泥舟と義兄弟であり、慶喜恭順の意を伝える密命を受けていた。剣豪幕末三舟が幕府と官軍との和平交渉に関わっていたことはとても興味深いことであるが、そこに武闘派次郎長も関わっていたのは驚きである。官軍の警備厳しい中を、悪童の頃預けられた庵原(いはら)郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家の計らいで、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かった。山岡鉄舟は、新政府軍が警備している建物に単身で乗り込み、大胆不敵にも「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄舟まかり通る。」と大きな声で言いながら西郷隆盛に面会を求めた。その時、江戸城無血開城、慶喜処分の密約が成立した。剣禅一如、至誠の人、山岡鉄舟ならではの振舞である。次郎長もその功績が買われ、街道警護を命ぜられ、積年の罪科も免ぜられて帯刀を許される。宿敵黒駒勝蔵は官軍として出征したが、その後脱退と見なされ、甲府県に処刑された。次郎長とは対照的な末路である。
 山岡鉄舟との出会いは次郎長を改心させた。世紀の偉業を成し遂げた鉄舟の心意気を畏敬し、心服した。鉄舟からも「精神満腹」と評価され、種々素行を改め、奉仕活動に努めた。駿府の警護、清水港で官軍と交戦した「咸臨丸」の乗組員の遺体の処理、富士山麓の開墾等々。学問にも目覚め、英語塾を開講するほどであった。一時、久能山開墾の認可を巡って、地元民と対立して暴力を振るう地金が出ることもあったが、鉄舟の言葉を思い、気持ちを鎮めた。
 しかし、維新の治世は平坦ではなく、不平武士の反乱、西南戦争が勃発する。その余波として、秩父困民党の反乱から自由民権運動が激化する。ここでも博徒の武闘派集団が資金作りの強盗等を引き起こす。次郎長も関わって行く。結局、中止になったが、「日本民権次郎長説話」の出版が企画されたほどである。山岡鉄舟の「奉公ニ勉メ」の言葉が効き過ぎたのか、元々博徒と自由民権とは反体制で親和性が高いのか…。それについての著作に長谷川昇著『博徒と自由民権(名古屋事件始末記)』がある。明治17年、全国的な博徒大刈込みの中で次郎長も逮捕される。逮捕時の武器所持は、ゲーベル銃23挺、刀80本。武闘派を捨てたとはとても思えない。懲罰7年、過料金三百円という重い処分であった。
 窮地を救ったのは、鉄舟の紹介で、一旦は養子縁組して富士山麓を共に開墾したが、意見の衝突で離縁していた天田愚庵である。文才もあった愚庵が、旧幕府、東北諸藩の有志の援助を受けて刊行した『東海遊侠伝』で、改心して大侠となった次郎長の功績を喧伝した。その甲斐あって、1年後に仮釈放。その後は汽船割烹「末広」を開業し、剣聖山岡鉄舟の後ろ盾もあって、日本一の侠客に祭り上げられて行った。
 「長五ノ改心スルヤ、力ヲ農桑ニ専ラニシ、富士ノ山中ニ就キ、曠原数十丁ヲ耕拓シ、以テ殖産ヲ勉ム。曾テ懲役囚数十人ヲ駆テ、之ヲ耕運セシム。……明治十二年、歳六十、気力壮者ニ減ゼズ。自ラ鍬ヲ執テ、日ニ耕種ニ励精スト云フ。」


清水次郎長



山岡鉄舟
一刀正伝無刀流
の開祖

全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第55(春季)号 2023年4月掲載

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