武士道と絵と算盤

尾崎 健次

 その二 渋沢栄一

1 私と『論語』との出会い

 「孔子は反動ちゃうで。革新やでぇ〜。」

 大学に入り、中国文学専攻の「研究入門」で、担当教授の白川静先生が真っ赤な顔をして、そのように強く叱りつけられた。私としては中国古代思想諸子百家の位置づけとして、老荘思想の反動(反作用)として広まったものとして説明したつもりであったのに…。
 そう、白川静は、70年安保反対の学園紛争全学封鎖の最中でも、一人深夜まで研究の灯を点し続け、過激派学生から反動学者の代表として、鉄パイプで頭を殴られたと、嘗ての同僚、作家で中国文学者の高橋和巳に書かれていた。
 その当時、執筆していたのが、『孔子伝』で、私が大学に入った2年くらい前に刊行されている。厳しい叱責を受けたものの、先生からは孔子の詳しい実像を、『史記』「孔子世家」の批判的見解を通して、時にはユーモアと色気話を交えて教えて頂いた。そのころの先生は、孤軍奮闘、それまでの『説文解字』に基づいた意味伝達的な成立過程に真っ向から異を唱え、文字の呪術的、宗教的な成立を唱える学会の革新的な存在であった。


白川静
金文、甲骨文、中国文学の研究者

 私は知らない間に、漢字の奥深い意味を持つ魔力に引き込まれて象形の迷路に入り込んでしまった。高校の漢文の授業の『論語』に「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すくな)し仁。」(口先だけでうまいことを言ったり、うわべだけ愛想よくとりつくろったりするような人間は、本当の思いやりの心が少ないものだ。)「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」(剛毅で朴訥な人物は仁者に近いと言える。)これらの文言が、チャンバラ剣道と野良仕事しかろくにやってこなかった、武骨で、口下手な私の存在に光を当て、救いの手を差し伸べてくれたような気がした。「一言にして以つて終身之を行ふべき者有りや。」と。(一言で生涯貫き通すべき言葉はありますか。)「其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。」(それは恕(思いやりの心)であろうか。自分がしてほしくないことは、他人にもしてはならない。)「仁」「恕」という一言で人間の行動規範を言い表す奥深さ、明快さに畏敬の念を抱くあまり、大胆にも中国文学に足を踏み入れてしまったのである。しかし、「算盤」には三日で逃げ出した。数字の読み上げと珠の速さに目を回して…。


孔子像

2 渋沢栄一の生い立ちと『論語』の学び

 渋沢栄一は天保11年(1840年)に武蔵国榛沢郡血洗島の豪農(名主)の家に生まれた。家は米、麦、野菜の生産の外、藍玉の製造、販売と養蚕を兼業するかなりの富農であった。栄一少年は農作業の外、藍玉の商売のため、いつも算盤をはじく商才が求められていた。5歳の頃より、父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高淳忠(じゅんちゅう)の塾に通い、『論語』をはじめとする「四書五経」を学び、君子としての「王道」、「知行合一」の思想の薫陶を受ける。同時に剣術は在郷の大川平兵衛より神道無念流を学ぶ。高杉晋作、桂小五郎などを輩出した一流の流派である。16歳の時、岡部陣屋で法外な御用金の上納を命じられるなど、支配階級の横暴、腐敗、堕落に憤りを抱く。百姓である限り、支配階級の武士の言いなりのままで、志を遂げることはできない。自らが武士にならない限り、この日本を改革し、外国から守ることはできないのだ…と。時代は尊王攘夷隆盛で、草莽の志士としての自覚を持ち、父から江戸遊学の許しを得て、名門、北辰一刀流の千葉道場に入門し、剣術修行の傍ら勤王の志士と交友を結ぶ。この考えは、「四書五経」の「修己治人(しゅうこちじん)」「修己安人(あんじん)」である。父、市郎右衛門からも「『其許の十八歳頃からの様子を観ておると、どうも其許は私とは違った所がある。読書をさしてもよく読み、また何事にも悧発である。……私は今後其許を私の思う通りのものにせず、其許の思うままにさせることした。』」とあるように、特に多芸多能で優秀な青年であったと思われる。孔子の「六芸」、「卑事に多能」という全人教育の実践である。しかも、それらの生活の営みを、自ら楽しんで行ったということである。「何事でも自己の掌(つかさどる)ることに深い趣味をもって尽くしさえすれば、自分の思う通りにすべてが行かぬまでも、心から生ずる理想、もしくは欲望のある一部に適合し得らるるものと思う。孔子の言に『これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず』とある。蓋しこれは趣味の極致と考える。自分の職掌に対しては、必ずこの熱誠がなくてはならぬのである。」

 今、放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝(つ)け』のタイトルも、彼が尾高淳忠と共に詠んだ『巡信紀詩(じゅんしんきし)』の中の『内山峡之詩』の一節「勢いは青天を衝きて臂(ひじ)を攘(まくり)て躋(のぼり) り 気は白雲を穿(うがち)て手に唾(つば)して征(ゆ)く」から採っている。栄一は非常に血気盛んな青年であった。詩は「知新」の気風であり、一生を貫いて持ち続けた。「子曰く、詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く、思邪(よこしま)無し。」(先師がいわれた。『詩経』にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』の一句につきている」
「詩を読む者は新意を発見するを尊ぶと断定して、孔子の学問は〈温故知新〉の学であって、いたずらに古を大事にする「守旧」ではない。」としている。栄一の詩への拘りは純粋誠実な感覚で、心を震わせるような「知新」との出会いを求めるものではなかろうか。この純粋一途な心は幕政改革、尊王攘夷へとつながって行く。


幕末の頃

3 草莽の志士とパリ外遊

 家業を投げ打ち、江戸への剣術修業と勤王の志士と交流する中、水戸浪士の流れと呼応して、決死の行動を計画する。高崎城襲撃と横浜外国人居留地の焼き討ち計画である。この時の行動は大義のためには命を懸けて志を実行する武士の生きざまそのものと言えよう。栄一は本当の武士になったのである。「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。」(先生が言われた、朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない。)
 しかし、この時、歴史の流れは大きく動いていた。下関戦争、薩英戦争、禁門の変による長州藩と尊攘派の京都排除。それを自ら体験した尾高長七郎による高崎城襲撃中止の勧告。栄一らは苦渋の決断を強いられるが、勤王の情熱は冷めやらない。襲撃計画が完全に行き詰まった中でも、栄一の機を見て敏なる才能は奇跡のように発揮される。父より百両の軍資金を借り、平岡円四郎の仲介を得て京に赴き、元から尊王の意思の強かった一橋慶喜に仕官する。そこで、堂々と倒幕尊王攘夷の献策を試みる。一橋家の家臣として、栄一は組織力、調整力の才能をいかんなく発揮し、「歩兵取立御用掛」の大役を果たして、慶喜より大枚の褒賞を下賜される。次に、藩の「御勘定組頭に任ぜられ、藩札を発行し、理財に功績を上げる。また、一橋家の領地、播州、摂州、泉州の領民たちと交情を結び、治世に安定をもたらす。『論語』の「修己治人」の実践であり、栄一の未知への適応能力の高さである。家茂急死による、慶喜の徳川宗家相継と同時に、第二次長州征伐の指令が下され、栄一も出陣するが、慶喜の長征は形だけのもので終わり、和議を結ぶことになる。栄一は慶喜の忠臣として、将軍家滅亡の運命を共にする覚悟を決めていたが、将軍名代(なだい)として出席する慶喜の弟、昭武(あきたけ)のフランス・パリ万博出席の随行の命が下される。


徳川慶喜

パリでは日本国代表使節団の経理を任せられた。2年程の滞在中、身をもって資本主義文明の現場を見聞した。
産業皇帝と綽名(あだな)されるナポレオン三世によって開催されたパリ万博に、近代ヨーロッパ文明の精華を見出し、サン=シモン主義の三種の神器「株式会社、銀行、鉄道」を学んだ。同時に、滞在費用節約のため、宿泊所との交渉に当たり、貯蓄や公債購入の投資を試みた。時には自らもフランス語を使って現地の女性と交際したとか…。異文化交流は積極的であった。その時に得た、産業、商業、金融に関する知識は、帰国後、日本の近代化に大きく資することになる。ここでも栄一の経理管理能力、集団の統率力、対外的な交渉力の優秀さが光っていた。

1867年パリ万博

4 大蔵官僚としての栄一

 明治維新で帰国を命じられた栄一は、ヨーロッパ帰国の残務整理を済ませ、蟄居、謹慎をする慶喜に報告をしようと静岡に赴く。しかし、その場で静岡藩勘定組頭を申し付けられる。大久保一翁から、ヨーロッパで習得した金融機構を作り、廃藩置県後の藩の財政を強化するように言われる。殖産興業のためには藩の借用金だけでは不十分で、広く資金を集めるための合本組織とバンクの設立を建言した。明治2年から太政官札と正金との交換差益等深刻な問題が発生したが、わずか1年で軌道に乗せ、家族を静岡に呼び寄せることになる。しかし、安息は束の間、新政府からの出仕要請を受け、大蔵省租税正(そぜいのかみ)の任命を受ける。大隈重信より新政府に、貨幣制度、租税、公債、合本、駅逓(えきてい)、度量衡等の諸制度を、西欧に比肩できるものに建て替えよとの説得である。租税正は今で言う財務省主税局長に相当する役職である。税こそは国民生活に直結する政治部署で、国利民福を実現する手段である。その時は、納税が年貢米の物納から地租の金納に変わる過渡期であって、その他、駅逓も貨幣の改革も難問ばかりであった。八面六臂の活躍である。
 しかし、廃藩置県と言う最大の難問を解決したとしても、残るは民業の遅れであった。商人の官僚に対する卑屈な態度は維新前と少しも変わらない。「自分が官途を退き、商業界に身を委ね、一大進歩を与えたい」と秘かに胸に抱くこと頻りであった。大久保利通らの陸海軍の予算拡張に対して「入るをはかりて出ずるをなすという原則は国家財政において厳格に守らねばならぬこと」という主義を守り、井上馨が江藤新平との対立をきっかけに大蔵省を辞任するのに合わせ、自分も辞表を提出した。
 「子曰く、君子は器ならず。」(先生がおっしゃった、人の上に立つ立派な人物とは、特定のはたらきに限定された器ではない。)
 臨機応変、融通無碍(ゆうずうむげ)で激動の幕末維新を潜り抜けた栄一であったが、自己の主義、夢のためには決然と筋を通すのであった。

5 財界人としての栄一

 大蔵省を辞職した栄一は、銀行、製紙、造船、印刷、新聞社等500以上の近代日本の基幹産業の設立や運営に関わり、経済団体の設立を行った。栄一は事業を経営する時、士族の力を活用するため、合本(株式会社)主義をとった。
「旧幕時代からの町人は、利益を追求するばかりで、視野が狭く、世界貿易を経営できる才幹のある者はめったにいない。だが、士族は知識、決断力がともに見るべきものがあり、充分、ヨーロッパと対抗しうる。しかし、彼らは軍人、役人の道を選んで商人とはならない。客をたぶらかしてもひたすら利益のみを追求する、商人の配下となるのは、自尊心が許されないためである。」
 そこで提唱されたのが、菅原道真の「和魂漢才」に倣(なら)った「士魂商才」である。士道の精神は仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできない。
 「富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、処(お)らざるなり。貧と賤とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。」(富と高い身分というものは、誰もがほしいと思うものである。しかし、正しい道〔仁〕を実践して得たのでなければ、〔得たはずの富や高い身分は〕そこにとどまることはない。貧しさと低い身分というものは、誰もが嫌がるものである。正しい道〔仁〕を実践したのにもかかわらずこれらを得たのであれば、〔得てしまった貧しさや低い身分は〕そこから離れることはしない。)

 栄一の目指した合本主義は公益に資する民間事業の促進を目指すもので、財閥の個人利益を追求した経済活動とは一線を画した。西南の役において、船舶運航の独占状態であった岩崎弥太郎の三菱会社に対抗すべく東京風帆船会社を設立した。合本主義か専制主義か。会社経営の在り方を巡って熾烈な戦いが行われた。最終的には両社の合併によって、日本郵船が設立されたが、栄一は個人的な利益をはかるより、国家経済の隆盛を重大事と考えた財界の志士と言うべき存在であった。
 栄一の活動は、財界の活動だけにとどまらず、600以上の医療、福祉、教育団体の設立、運営に関わった。明治7年、東京府知事から共有金の取り締まりを委託された。この資金により、慈善救済事業を発展させる。中でも東京府養育院の監督を府知事から委嘱された折は、快諾して、子供たちの発育に気を配った。「養育院の子供には甘えがない。子供に、楽しみや甘え、自由がないと自然に行動が不活発になり、発育に支障を来す。」(同)時には、自ら遊び相手になって、親しみを増させるようにした。
孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運らすべし。」(孟子が言った、「人は皆、人の不幸を見過ごすことができない気持ちがあります。古の王は人の不幸を見過ごすことのできない気持ちを持っていたので、人の不幸を見過ごさないようにする政治を行っていたのです。人の不幸を見過ごすことができない心をもって、人の不幸を見過ごさない政治を行えば、天下を治めることは手のひらで物を転がすかのようにたやすくできます。)
 栄一は「学び」による人間形成、社会の発展を何よりも重視した。二松学舎、現一橋大学を始め、日本女子大学、同志社大学等数多くの教育機関の設立、運営に関わった。


ニューヨーク(1915年)

 国際交流、民間外交にも活発に関り、中でも、明治45年(1912年)ニューヨーク日本協会協賛会を創立し、貿易摩擦、日本移民排斥運動に対し、対日理解促進に努めた。これよりも先に、国際人、新渡戸稲造が『武士道』(1899年)を刊行し、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、解説しているが、渋沢の米国講演もそれに呼応するものになっている。
 大正9年(1920年)国際連盟協会創立。大正10年(1921年)82歳、ワシントン軍縮会議出席のため4度目の渡米。ハーディング大統領と会見。国際交流と平和への、文字通り身を削る東奔西走の日々である。 大正15年(1926年)、昭和2年(1927年)にノーベル平和賞の候補になる。
 中国との関係は『論語』の生まれた国と言うこともあり、一目置き、孫文の辛亥革命を支援するなど、良好な関係であったが、韓国とは、植民地時代、第一国立銀行の外国最初の進出場所であり、韓国の最初の紙幣の肖像画になったことで、反感を持たれている。
 1931年(昭和6年)満91歳没。


1万円札の肖像

6 栄一の『論語』から学ぶもの

渋沢栄一は『論語』の精神で近代日本の経済界を構築しようとした。論語と算盤は、一見、相反する似ても似つかないもの。しかし、近代日本の改革のための活動から、天の啓示のように結びついた。政治と経済の公共性、社会性。それを保証するための「信」。「民、信無くんば立たず。」(民に信がなくなると社会は成り立たない。)モラルなき競争は野獣である。栄一は『論語』が飾りだけで終わらぬよう、その精神の普及のために、日々、研鑽し、活動した。『論語』普及のための講演が、都合400回以上に及び、その集大成が『論語講義』であり、『論語と算盤』の出版になった。研究書としても専門的あり、何よりも自己の稀有な人生体験に照らし合わされ、身近で分かりやすく解説されていて、ロングセラーである。尊王攘夷の行動は「道」の実践であり、「孝」の問題は父との関係であり、明治の英傑を引き合いに出しながら「仁義礼智信」の重要な徳目が解説されている。
 栄一は「修己治人」の実践のために、常時、「仁」の実践に努めた。「仁者敵なし」「怒りを人に移さず」と自己の精神修養と対人関係には特に気を付けた。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにされたようなキリスト教的な「隣人愛」、「己の欲する所を人に与えよ」式の利潤追求を全面的に肯定し、それを慈善行為に回すような資本主義活動に対して、「己の欲せざる所人に施すこと勿れ」という『論語』の東洋的な他者への配慮、思いやりの精神の方が経済活動として害が少ないと説く。
 現代は、グローバル資本主義、新自由主義経済の過剰な競争原理が猛威を振るって、貧富の格差、汚職、腐敗、紛争、環境破壊等地球規模での深刻な危機が広がっている。栄一の信条に、「金銭資産は、仕事の滓(かす)である。滓をできるだけ多く蓄えようとする者はいたずらに現世に糞土(ふんど)の牆(かきね)を築いているだけである。」というのがある。このような激烈な言葉を口にできるような世界は想像できないが、格差社会で巨万の富を退蔵する超富裕層には、心胆寒からしめる意味が込められているであろう。改めて公益を正面に据え、持続可能な「コモンの再生」を目指す社会の実現への再検討が必要である。明治の近代が始まってから150年。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の『論語と算盤』が脚光を浴びている今、新しい経済のシステムと道徳規律の構築が急務である。
「礼は鬼神を呼ぶ魔術、心は世界を宿す秘術」(安田登)。『論語』には中国を始め、日本、韓国など東洋文明三千年の歴史が詰まっている。これからも『論語』を読みながら、人間の在り方、社会の在り方を考えて行きたいと思う。『論語と算盤』が好きだった先輩の面影を浮かべながら…。


全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第49(秋)号 2021年10月に掲載

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