武士道と絵と算盤
尾崎 健次
はじめに
数年前、町内会の区長をやった時、55年ぶりに中学の剣道部の先輩と再会した。彼は地元では資産家の息子ではあったが、独立し、一代で電気工事会社を興し、成功し、豪邸を立て、別荘を持ち、今は余裕の隠居暮らしをしている身分である。やり手だけれど、気さくで色々話しかけてくれる。「高校の国語教師なら漢文分かるよね。俺は渋沢栄一の『論語と算盤』のファンだ。また、色々と教えてくれ…。」と急に矛先が向いてきた。「論語と算盤?」以前から当然知ってはいるけれど、題の設定があまりにもかけ離れすぎていて、偽善的な臭いがし、『論語』には興味を持っていたが、そのまま打ちやって置いた。その先輩が、時には、中秋の名月の時に、「今、きれいな月が見えているぞ」とメールをしてくれたりした。なんと風流な人なんだとその時は感心したが、その人が任期を終えた半年後に、急逝した。本人も、家族の人も多分、知らなかったのではないかと思う。お見舞いの一言も言えない。先輩の遺志を受け取る形で、この際、『論語』(大雑把に武士道)の実際の意義について、武士道の手本とされる「渡辺崋山と渋沢栄一」を比較しながら、調べてみようと思う。
その一 渡辺崋山
1 渡辺崋山の武士道
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」これは武士の心得を説いた『葉隠』に簡潔にまとめられた一言である。主君への忠誠心が賛美され、軍国主義が戦争を遂行するために、武士道という美名を隠れ蓑にした悪魔の囁(ささや)きであり、良識ある現代人にとっては忌み嫌う、永久に凍結すべき過去の遺物である。しかし、渡辺崋山はこの美しき武士道精神「忠孝」の最も優れた実践者として後世に名を残すことになる。
2 渡辺崋山の生い立ち
崋山は三河田原藩の江戸詰め藩士で上士としての家格を持ち、代々、百石の禄を与えられていたが、父が養子であり、藩の財政難から、引き米(減給のこと)を受けたりで、実収入はわずか十二石(一石は成人一人当たりの1年分の消費量)であり、米の値段から換算すると七万五千円で金一両に相当するが、賃金水準から考えると、一両は20〜30万円の価値があり、年収に換算すると四百万円くらいであり、一家の主としては薄給である。さらに、父、定道は病気がちで、医薬に多くの費用が掛かり、幼少期は塗炭(とたん)の苦しみを味わった。そのため、弟、妹は次々に奉公に出、兄弟離別の憂き目に会う。その中でも、崋山の人生観に決定的な影響を与えたのは、晩年に書かれた『退役(たいやく)願書』に書かれている十二歳の時の事件である。日本橋の通行中、備前、岡山藩主、池田氏の行列に突き当たり、先供(さきども)に激しく打擲(ちょうちゃく)されたことがあった。出生の身分の違いに発奮し、儒者として身を立て、大名でさえ、師として従わせるところまでになろうと一大決心をする。幕藩の役人のエリートを養成する昌平坂学問所に通い、時の朱子学の最高権威である、佐藤一斎(佐久間象山、西郷隆盛などに大きな影響を与えた『言志録』の著者)にも師事することになる。ここで儒学を通し、武士階級、為政者としての仁政、経世済民、知行合一の素養を身に着ける。
3 崋山の絵の修業
しかし、学問では貧窮の家計は救われなかった。得意の画才を生かし、絵馬や扇の絵を描いて賃料を稼ぐようになる。崋山の絵の才能はずば抜けていた。画塾にも通い、南画の修業から始め、特に時の大御所、谷文晁(たにぶんちょう)に認められて脚光を浴びることになる。沈南蘋(しんなんびん)の絵を模し、浮世絵、光琳の大和絵、春画や美人画(自分の愛人と言われている竹子の『校書図』があり、写実の筆致は冴えている。概して、崋山やその師、松崎慊堂(まつざきこうどう)は一方で非常な道徳的厳格主義者でありながら、一方で、杉浦明平の『小説渡辺崋山』にあるように、極めて性的に奔放な人物として描かれている。しかし、一見、このアンバランスに見える行動パターンも、丸山真男の『日本政治思想史研究』には「朱子学」が「一は儒教の規範主義を自然主義的制約から純化する方向であり、他は逆に『人欲』の自然性を容認する方向である。」とある。崋山の不可解な行動パターンの理解の一助になるのでは。)など幅広く、意欲的に模写に取り組む。中でも『一掃百態図』や『四州真景図』などの風俗、地理を描いたものには、他に類のない独特の才能を発揮する。百姓から町民、武士、僧侶までのあらゆる階層の、老若男女の様々な生活場面の興味深い瞬間を、その物の本質に迫るようなリアルな筆致で捉えている。例えば「馬の曲芸」の写生画には動画を見るような躍動感が感じられる。「寺子屋」の場面では温厚そのものの老教師とそれを取り囲む学童のやんちゃな生態が生き生きと描かれている。また、「行列」には自分の人生を変えた、大名行列の先供に打擲される少年の姿まで見つけることができる。「崋山はすでにこの作品のうちで、その個々の人物とその集団の人間的、社会的な性格を描こうとしており、そこに作者の社会的な関心と人間的な感情がにじみ出ている」(蔵原惟人『渡辺崋山—思想と芸術』」『游相日記稿』、『四州真景図』などの風景画は彼の記録癖、速写力、描写力の才能で数限りなく残されており、貴重な資料であると同時に見ていて興味尽きない。例えば、武術や舞踊の絵は動きの勘所(かんどころ)が描かれており、現代に受け継がれている武芸の原型を垣間見るような気がする。このような当時の風俗画が葛飾北斎の『北斎漫画』の影響の下に描かれたのは間違いないが、北斎の浮世絵的な「風流韻事」とは違う。特に肖像画は、南画、文人画の伝統に西洋的な写実法である遠近法や濃淡法を加え、相手の人格そのものまでに迫っている。「単なる写生ではなく、単なる画家の気分の表現でもない、写生を通した自己表現である。」(加藤周一『日本文学史序説』)その筆致と眼力は崋山ならではの天才的な描写力と細部まで目を行き届かせる観察力と仁政を理想とする君子の心情の発揚である。代表作、『佐藤一斎像』『松崎慊堂像』『鷹見泉石像』等。
4 蛮社の獄
天保三年(1832年)に年寄役を拝命するが、この年より、天保の飢饉が四年間にわたって続き、藩の財政も窮乏 を極め、その立て直しに奔走の日々を送る。時を同じくして洋画を通して接近した蘭学は藩の海防掛の職務遂行のためにさらに必要の度を深め、洋学者グループ「尚歯会」を組織して行く。「尚歯会」というのは表立っては老人会というような意味であるが、その内実は、当時の大社会問題であった天保の大飢饉対策のために時代の賢者である蘭学者、儒者、官僚たちが知恵を出し合うような組織であった。医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたった分野の科学技術研修の団体であった。現代に例えるなら、政府から独立している筈の「日本学術会議」のようなものだと思う。崋山の先進的な知識や世界認識は各方面で抜群の成果を上げた。殖産興業のため農政家大蔵永常を招聘(しょうへい)する。人材育成のため、藩校「成章館」の強化を図る。藩の財政改革に格高制という能力給を導入する。飢饉には独自の「報民倉(ほうみんそう)」という非常時の食糧庫を設置し、天保の大飢饉には一人の餓死者も出さなかった。天保四年には、藩譜取り調べとして、四度目の田原帰藩を行い、田原近海諸島の巡視を行う。その折は、海路、神島を経由して伊勢神宮を参拝した後、帰路、佐久島、吉良、西尾を通って岡崎まで来たところで田原に呼び戻されている。その間の事情が絵入り紀行文として『参海雑志』に残されている。船の航海や島民の漁の様子が見事な鳥瞰(ちょうかん)図で描かれ、まるで、ガリバー旅行記のような異次元の体験である。この神島渡航が崋山にとって冒険と異界への興味と感動に満ちた旅行であったことがよく分かる。崋山自身、荒波を渡って辿り着いた神島が桃源郷のような風俗と人情を持っていることに驚いている。上半身裸の女たちが明るく元気に船を引き上げてくれる様子や「男ハ素朴にて偽(いつわり)なく、女はいとこゝろやさしくて、江戸の女の賤しきが勢ひ猛なるにハはるかにまして、なかなかめで度(たく)ぞみえし。」と思うところは崋山にとって竜宮城そのものではなかったか。
また、私事ではあるが、地元、西尾市の華蔵寺(けぞうじ)から見た茶臼山や八面山、城下町での華やかな技芸の座敷風景が描かれていることや航海には平坂船を使ったことも記録にあり、とても、親近感を覚える。一見、個人的な踏査旅行のような体裁をとっているが、この時は藩の海防調査、「紀州商船難破事件」処理の重大な任務も兼ねていた。
天保年間は、欧米列強の中国、日本への急接近が行われていた年である。幕府の異国船打ち払い令も出ており、海防の危機は一段と高まっていた。崋山の蘭学接近は海防上必要な「江戸湾測量」でも、西洋の測量技術として大いに役立った。その、職務上知り得た知識情報から義憤に駆られ、危機告発の献策として『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』『西洋事情御答書』『慎機論』等が執筆される。病を冒し、命を削る奮闘である。丸山真男が『「である」ことと「する」こと』の中で「徳川時代を例にとると」「大名であり武士であるという身分的な『属性』のゆえに当然—先天的に—支配するという建前になっています。」と述べているような、幕府諸藩の硬直した社会構造と財政の破綻と腐敗、国家的危機に対する無策への絶望は測り知れない。それに加え、更なる多忙と絵画への執着はどれ程崋山の心を苛んだだろう。蔵書、書画を藩主へ献上して(一説に、『猛虎図』は三千両の藩の借金返済のために描かれたと言われている。)年寄役、退役願書を提出するが聞き入れられない。
折からの「江戸湾測量」では江川英竜と蘭学嫌いの幕閣、鳥居耀蔵との対立に巻き込まれ、「無人島事件」がデッチ上げられ、崋山が「蘭学にして大施主」として、高野長英らと共に町奉行所に召喚、幽閉される。いわゆる「蛮社の獄」である。驚くことに、その捕縛、護送の様子が『獄中縮図』に、まるで第三者の目を通して目撃されたようなリアルな構図、筆致で描かれている。前代未聞の惨事を決して忘れまいとスケッチした画集。崋山執念の画家魂の作品である。
5 田原藩蟄居の画業
田原藩の蟄居生活は一切の役職から外され、禄も最小限に削られ、田舎での貧しく、不便な生活であり、更に、藩の役人からの冷眼視などがあって、かなり厳しいものであった。しかし、画業の方は「最後の疾走」(ドナルド・キーン)というべき、人生の象徴的な作品を数多く残した。
『鸕鷀捉魚図』は鵜が川魚をくわえ、今、まさに呑み込もうとしているところを、離れた枝の上のカワセミが隙を窺っている。この様子には、命を懸けた生き物の厳しい闘いの緊迫感じられる。この絵が蛮社の獄の直後、田原蟄居で体力が回復して最初に描かれたということは、自分たちにいきなり降りかかった政治的弾圧が、食うか食われるか、弱肉強食の自然界と同類であるという暗示が感じられる。一瞬の隙と油断に対する、痛恨の自戒の念が感じられる。
川の流れの中の脚の動きと木の枝の鳥の凝視の、動と静の変化も臨場感が感じられ、崋山ならではの緊迫感のある作品である。これは剣豪宮本武蔵の有名な『枯木鳴鵙図』に通じる構図と意匠である。崋山自身もこの絵を所持していたそうである。武蔵は剣と画のニ道の達人。剣と絵に通じるものを見出し、鍛錬に鍛錬を重ねて到達した真剣勝負の深い境地を筆に託したものである。崋山自身も神道無念流の剣の相当な使い手であり、剣豪、斎藤弥九郎(門下に高杉晋作や桂小五郎がいる)と深いつながりがあって、江戸の学問所の武術指南に招いていた。自身も文武総掛りを務め、人材養成に武道を大いに奨励した。武士の刀には相当な思い入れがある。剣士が剣をとると相手の心が見えるように、崋山が絵筆をとると相手の人間の本質、社会や歴史の本質、また、世界の本質まで見えているようだ。封建社会の武士階級の統治の特権として、帯刀がある。しかし、安民、済民、救民の仁政を行うべき武士階級が、飢饉で民の悲惨な事態を救えないのは、「刀がないのと同じである」として、その覚悟で「報民倉」の設立を献策している。
また、同じくして、この災厄打開策の人材育成の強化のため、田原藩の藩校「成章館」の文武総掛りを受けた時、その基本方針として孔孟の教えを掲げた。その時、描いた孔子像は崋山特有の生々しく写実的な孔子像であるが、藩校の礼拝の対象になるものだけに、佩刀(はいとう)した元絵を採用し、武士としての権威を象徴している。
『加羅哲斯(からてす)像』(ヒポクラテス像)。西洋の銅版画を元にして制作したものと思われるが、眼球のリアルな眼差しと瞳孔の輝きには、医者として最も大切な知性と仁の心そのものが描かれていて、驚きである。崋山は写生を通して、自己の思想を表現している。「徹底した写実主義は通俗化した画壇への批判、蘭学への傾斜は形骸化した儒林の伝統への痛烈、無慈悲な評価なしにはあり得ない。」(加藤周一)
『冷毛虫魚冊』は見慣れた小動物の精緻な写生であり、その写実の見事さは科学的細密画ともいうべきもので、それだけでも他に類を見ない出来栄えであるが、生物の食物連鎖の生態まで描いて、その存在の本質まで迫っている。
『千山万水図』は政権の中枢から追放された辺境を表すとともに、海防問題に揺れる当時の日本の置かれた状況を暗示しているとも読み取れる。
『月下鳴機図』は君主の帝王学の一つとしての「耕織図」をモチーフにしたもの。為政者の農民の苦労をしる「勧誡(かんかい)」の意味がある。
『五難の図』は「思想的」絵画というべきもので、儒教的あるいは仏教的な教訓を基に、天保から安政あたりにかけて相次いで起こった災害を念頭において、その当時の上層階級や封建的支配者がとった態度や政治を批判する作者の意図が見られる。藤盛成吉の『渡辺崋山』では「旱魃(かんばつ)、台風、虫害、という天災に痛めつけられた民衆が、飢え疲れ、争って木の皮をかじったりして飢えを凌ごうとしているのに対し、金持ちは徒に蓄財に走り、美女を侍らせ、遊興に耽る。しかし、庶民の窮乏が増すにつれ、その被害は彼らにも及び、ある者は、金貨を抱えたまま飢えたりする。そのころになって、やっと役人が巡視を始め、倉を開いて、多少の穀物を放出する。生き残った獣みたいな賤民はこぼれた生米をまで両手ですくってがつがつ食う…。」とある。コロナ禍の国難の下で、遊興に耽るどこかの指導者とよく似ており、いつの時代も変わらない。この絵は当初、評論家、蔵原惟人の家にあって崋山の作品とされていたが、後に、門人、山本琴谷が崋山の意を受けて描いた『窮民の図』であることが分かった。崋山自らが描こうとしたものを、代表作の無い琴谷に譲って描かせた設定になっている。中国宋代の時代設定になっているが、崋山年来の儒教倫理に基づく為政者批判の絵図である。
6 崋山の死
絵が君子による経世済民、王道政治の表現手段であり、命がけの行為である。しかし、崋山自身は藩の一家臣であり、封建社会の支配の枠を超えるものではなく、その正義の信念が幕府の忌憚に触れた。支配階級の腐敗堕落の故の弾圧、粛清。崋山のような全人格的な天才にはいたたまれないような生活であったろう。謹慎の身の上で、絵を描いて金を稼いでいると反対派に噂され、藩主にまで不名誉がかかっては、立つ瀬がない。役人を止め、ただひたすら絵の世界に浸りたいと思う願さえ許されないと思った時、死の思いが頭を占めた。死ぬべき時に死ねないのは武士ではない。おめおめと生き恥を曝せようか。武士は死をも意義あるものとして美しく飾る。人の波乱に富んだ一生を見事『黄粱之夢』に描いた唐の『枕中記』になぞらえて、『黄粱一睡図』を描いた。絵師、崋山の存在意義溢れる絶筆である。漱石の『こころ』で先生が遺書を書く理由の説明に崋山の『邯鄲』を持ち出している。崋山は『邯鄲』を描くために自決を一週間遅らせたと。それだけこの絵に込められた自己の人生の意味は深い。「先生」も「明治天皇の死で、明治の精神が終わった時、明治の影響を強く受けた自分が生き残っているのは時代遅れだ…。」と。崋山自身も封建道徳に生きた自分の限界を、自分自身の手で終わらせている。
不忠不孝渡邉登
罪人石碑相成ざるべし因自書
その死はきちんと準備されたものであった。遺書の執筆。自決の作法。どんなに生活に困っても手放さなかった武士の魂である小刀、備前祐国(すけくに)を使い、腹を切り、その後白木綿で腹を巻き、最後に自ら喉を突き、止めを刺した。刃先はうなじまで突き出ていた。見事な武士の最期である。この腹を切ったかどうかが藩の裁決の肝心なところで、江戸から一月近くも遅れて検死役が来た。その間、遺体は壺に入れられ、石灰付けだったそうだ。武士の面目を果たしたことが認められた母の喜び。許された家の存続。藩主、三宅康直が将軍の奏者番を仰せつかる。
『論語』の儒教道徳は君子=為政者=士(武士)の高度な政治的知識を説いたものである。 新渡戸稲造の『武士道』には「武士には“ノーブレス・オブリージ”(身分にともなう義務)がある」ことが朗々と説明されていて、武士道を「自己責任」「他者への配慮」「義務の遂行」という面で捉えている。1900年、対外的に拡張政策をとる日本の、キリスト教を信仰しないことによる西洋からの偏見に対する、新渡戸の国際的な自己弁護である。
公の福利の実践者として義務づけられた地位と帯刀という特権。それを果たすことが出来なかった場合の責任の重大性。崋山は内憂外患の危機に際して腐敗堕落して義務を果たさない武士に強烈な警告を発することになった。その後、洋学者は実用として科学技術を生かし、富国強兵の基礎を作って行く。また、武士としての使命に燃えた多くの勤王の志士は尊王攘夷を掲げ、倒幕に向かうことになる。崋山は朱子学で養成された統治者としての武士として、極めて優秀な実践者であった。しかし、幕政にまで少し踏み込み過ぎた。時代が少しだけ早かった。その後、日本がとった進路は和魂洋才である。その故の自決。崋山の死は各界から惜しまれた。藩の要人として、時の賢人として、画家として天才的な働きであった。その存在は東洋のレオナルド・ダビンチと言ってもいいのではないか。彼が生き続けていたとしたら、どれだけ時代の進展に貢献できたか知れない。天保12年(1841年)没。49才。それと入れ替わるように歴史に登場するのが天保11年生まれの男、渋沢栄一である。崋山が命を懸けた武士道(儒教道徳=『論語』)を高く掲げて…。
「そのニ渋沢栄一」に続く。
全日本年金者組合岡崎支部 文化教室 季刊文化誌 第47(春)号 2021年5月に掲載